昭和レトロ鉄板酒場 のんで忘れるか。忘れられない、レトロ豚チーズお好み焼き
モチ·2026年9月6日

恵比寿のいちばんの晩ごはんは、東京でいちばん目立たない扉のうしろに隠れている。輝くものでもない、だだっ広いわけでもない、ただの7階建ての雑居ビル。小さく古いエレベーターに乗って上がり、重い扉のわきを見ると、こう書かれている。「昭和レトロ鉄板酒場 のんで忘れるか」。まるで、真夜中の路地でコートの襟を立てた男が「飲んで忘れてしまえよ」と、ひとつ囁いて去っていくみたいな名前だ。私は、この行を読んだだけで、もうこの店を気に入ってしまった。
重い扉をくぐった瞬間、恵比寿の外の景色は、自分を中心にすっと組み替わっていく。灯りは琥珀色に変わり、壁には、すでにどこか古びてしまった夢を売る見知らぬ美人たちのポスターが、いつのまにか花が開くように咲く。そしてカウンターの鉄板が、まるで「さあ、こちらへどうぞ」と招くみたいに、あたたかく低く唸りはじめる。
一度入ってしまえば、夜は「やってくる」というより、映画の世界の中へ、横ざまに滑り込んでいく感じだ。琥珀色の光の下で、壁は古い影の色へと深くなり、そこには忘れ去られた博物館が、ただずっと吊るされたままになっている。艶の褪せた広告、着物姿の美人、歯を見せるコーラの笑顔。どの一枚も、もう誰の世界にも存在しない約束の半ばで、ピタリと止まっている。それは、ガラクタという衣を着たノスタルジーだ。それは歴史だ。そして、いかなる理屈にも逆らって、ただただ美しい。
その熱い灯りのど真ん中で、今夜の主役は既に待っていた。低い木づくりのカウンターに組み込まれた鉄板は、磨き上げられて、こちらへ向かってウインクしているみたいだった。運命はここで作られ、そして食べられる。頭上の壁には、額縁のように飾られたサッポロビールのポスター。昭和の美人がじっとこちらを見ている。その目は「一杯、どうぞ」と言い、その落ち着きは「でも、モタモタしないで。鉄板は熱いのよ。約束が効くのは、火が生きているうちだけ」と、静かに語っている。
近くに座る。それがルールだ。きちんとした鉄板の店で、晩ごはんは座敷の端から鑑賞するものではない。熱が肌に届く距離に座り、鉄板の唸りを感じながら、職人の腕前を自分で判断する。私が任された職人はベテランだった。無口で、正確で、キャベツをまるで何世代も前から彼の家筋に恨みでもあるかのように、一枚ずつ丁寧に切り分け、かりかりという約束をきちんと果たしていく。

まず、自分に武器を装備させる。今夜の相棒は「生レモンサワー」。なんて正直な飲みものだろう。もし喋れるなら、きっと隣でこう囁いてくれる。「私の中には、本物のレモンが住んでいたのよ」と。シロップの柑橘のまねではない。冷えて、澄んで、グラスの底には、小さくてちょっと得意げな月みたいなレモンの薄切りが、ひとつ、ただ静かに浮いている。もし飲みものに性格があるなら、これは一番奥の席に一人でいつも座り、決して自慢せず、それでも誰にも忘れられたことのない常連みたいなやつだろう。戦いの前に、こんな味方を隣に置けるなんて、これ以上ない。

そして、助演が出てきた。「焼きポテトサラダ」。名前が控えめなぶん、侮ってはいけない。最初の三秒間は、おとなしい一皿に見えるから、好きにやらせておけばいい。すると、うまみが、会場に入った瞬間にはもう「私がいちばんおもしろいの、私なのよ」と分かっている客みたいな余裕の足取りで、ずかずかとやって来る。切り開くと、中心のじゃがいもは柔らかく温かい。けれど、まわりの衣はそんなに柔らかくはない。すっかり黄金色に焼き上がって、サクッと崩れる。断言はできないけれど、あの薄く焼き固められた衣は、ほぼ間違いなくチーズだったと思う。……本当に、チーズだったのだろうか?味はそうだった。けれど私は、生レモンサワーで舌を整え、ここからの戦いに備えるのに忙しくて、衣の正体をじっくり観察するのをすっかり忘れてしまっていた。その真ん中に、大葉が一枚こっそり潜んでいる。小さいけれど、確かに「きく」一押しがある。大げさではない。強い初撃ではない。ただ、大きな音を立てずに「こっちを見て」と求めている小さな子ウマが、こっそり肩をぽんと叩く、その丁寧さだ。そのあと鼻をすっと抜ける、青くて爽やかな一撃のおかげで、この一皿はくるっと輪郭を締める。野心のあるサラダは何度も食べてきたが、これはちゃんとキャリアプランを持っている一皿だった。

そして、目玉の大トリ。大阪風の豚チーズお好み焼き。ひと口も食べる前から、これはまず、鑑賞のための間を要求する。整っていない部屋が、なぜか雄大に見える。あの「乱れの美」だ。頑固なミニマリストのご家庭では、きっと規則でお目にかかれない部類だろう。やわらかいキャベツの殻を箸で割ると、中から、夜じゅう息を殺して待っていたみたいに、とろりと溶けたチーズが静かにあふれ出してくる。てっぺんではかつお節が、湯気に温もりを受けながら、あの有名な幽霊のダンスをしはじめる。食べ物に向かって軽々しく擬人化をするのは、私の得意とするところじゃない。けれど、この一皿はそれを考え直させてくれた。
いちばん最初の一口で、これは、やっと意味が通じた書類みたいだった。ソースの甘い香りと、からしのツンという鋭さ。この甘さと辛さの取り合わせは、最近あちこちで見かけるようになってきた流行りで、私は大好きだ。ふたりは、ちゃんと互いのことを分かっている。おなかを空かせた猫と、缶がようやく「かちり」と開いたあの瞬間みたいに。からしの鋭さがソースの甘さをちょうどいい塩梅に締めて、どちらも長居をしない。そこへキャベツの歯ごたえが加わり、生焼けのかけらもない、しゃっきりと焼き切った生地が続く。そして、ここからが、この店の静かな奥の手だ。お好み焼きにチーズを頼むのは上級者の技で、十年通ってきた常連か、あるいは……ずる賢い猫だけが心得ている。

熱い鉄板の上に残しておいた一切れを、そのまましばらく置いておくと、チーズは時間をかけて進化しつづける。溶けて、深くなって、土台のまわりにこんがり焦げた、いい香りの端っこをつくりはじめる。メニューのどこにも載っていない、秘密の「襟」みたいなやつだ。その端っこをひと口かじって、私は座ったまま心の中で立ち上がり、両手を挙げた。いや、実際に立ち上がるのはやめておいた。立ち上がるのは消費カロリーの無駄だし、そもそも、私はそのためにこの席を取ったわけじゃない。
これは、ラジオで流れる流行歌みたいなお好み焼きだ。初めて聴いた日は、ただ単純に。ふたたび聴けば、もう懐かしい。最後の節には、どうしたってずっと聴いていたくなる。一切れずつ、どれだけおいしくなるかを誰かが記録していたなら、その数字はきっと書ききれない数になって、皿が空になるずっと前には、ページの外にまであふれていたことだろう。
お好み焼きを平らげたあとに、プロならではの小さな知恵をひとつ。この店には、うまい棒のようなお菓子をはじめ、駄菓子がテーブルいっぱいに並んでいて、好きなだけ食べられる。私は「無料」という言葉を、責任ある猫として試してみた。ただし経験者からの一言。十五個目あたりから、とても親切な店員さんたちが見せる表情が、呆れでも品定めでもない、妙なものに変わっていく…冗談ですよ。本当に無料で、店員さんもいつだって優しい。お好み焼きのためにも、そのあとの駄菓子のためにも、ほどほどが肝心だ。
「食べる」夜と「味わう」夜がある。どちらも素敵だけれど、今夜はむしゃぶりつく夜だった。誰にも見られていないことに気づいた猫が、魚の売り場からためらいなく獲物を持ってくる、あの猫みたいに、お好み焼きはあっという間になくなっていく。指先は忙しくても、心はとても幸せだった。
立ち上がろうとしたとき、店の人が、ひとつウインクをしながら、小さな包みをこっそりと私の前足の上へ、すっと置いてくれた。「おみやげです。どなたにも差し上げています」と。中身は言わない。いくつかの余白は、誰かが先に言葉で説明してしまうより、自分で開けて確かめるほうが、ずっとおいしいから。ただ、ビールの美人に外で私が言ったことだけは、ここに書いておく。「忘れてしまいなさい」と名乗る店が、私には、覚えておきたい夜を手渡してくれた。だから私は、きっとまた来る。
「昭和レトロ鉄板酒場 のんで忘れるか」は、ただのレトロ居酒屋じゃない。部屋というより、ずっと以前から「家」であることを忘れていない、家のような店だ。あたたかく、せかさず、低い灯りと熱い鉄板には優しい。もしあなたが、押し入れの奥から古いカセットテープを引っ張り出して、ほこりを払ったら、テープがまだちゃんと回っていた、そんな一晩が欲しいのなら。ここが、そのドアだ。
ぜひ、食欲と、鉄板が熱いうちに、少しばかりの余裕を持って来てみて。小さな包みの正体は、どうか自分で確かめて。たとえそれがとてもいいものだったとしても、私は秘密を開けてまでばらすことは、主義としてできないのだから。
住所: 〒150-0013 東京都渋谷区恵比寿1-8-7 三恵8ビル7F
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